国語力について

LALALANDと教養

2019年2月8日金曜日の金曜ロードショーはLALALANDだった。

この映画は、過去の名作ミュージカル映画のオマージュが散りばめられている事で知られている。それぞれの名作映画の模倣ネタを全て理解して、やっとLALALANDの面白さ全てを享受できたと言えるのではないだろうか。

もちろん、何も知らない人がこの映画を観て満足することに異論はない(筆者も全く知らないが楽しめた)。

ただ映画に限らず、小説やドラマのような作品の面白さを、全て感じる事ができるかどうかという意味で、個人に能力の差が存在あすることを否定できないだろう。

その差は、事前に知っている作品に関する知識と、作品内の細やかな表現を感じ取る能力の2つによって発生していると自分は思う。

LALALANDで言えば過去のミュージカル映画の知識の有無が前者にあたる。

筆者は、この「作品を楽しむために必要となる様々な知識」が「教養」であると認識している。

後者の感じ取る能力に関しては、内容の関連性を考慮して次章で紹介する。

 

「スゴい」文系

前章とずれた話から入るが、自分は高校2年まで理系のクラスで、3年次から文系のクラスに移り、大学の文系学部に入った。大学に入るまで「数学ができる人」が理系を、「数学ができない人」が文系を選択しており、文系は理系の下なのだと思っていた。

また、理系の数字を扱う能力に感心した事があったが、文系の国語力に対して感心したことは無かった。

しかし、大学で国語力に秀でた3人の友人に会い、自分の考えはまるっきり変わった。

まずは、3人うちの1人との体験を説明する。その1人とは、入学してすぐ友達になった、同じクラスのイケメンである。

 

大学2年の頃、本田翼と福士蒼汰が出演するドラマの「恋仲」が流行っていた。ドラマ中で、本田翼が福士蒼汰にワンピースの51巻を貸すシーンがあった(はず?)。

同じクラスのイケメンは、この51巻は「こいなか」の「こい(51)」を示しており、ドラマ制作者が適当に選んだ訳ではないと主張した。ドラマ中で巻号について言及されるシーンは無かったが、自分はこの主張が正しいと思ったし、ドラマ中の細やかな表現を感じ取る能力に驚かされた。

これが、前章で示した「作品内の細やかな表現を感じ取る能力」である。LALALANDのオマージュのように、作品の表現全てが分かりやすい訳ではないだろう。

筆者は、これが「国語力」であると認識している。

 

国語力とコミュニケーション能力

話は変わって、この国語力を、いわゆる「行間を読む力」に近しい能力と捉えた時、国語力が高い人ほどコミュニケーション能力が高いと自分は思う。

清潔感のある美男美女が、ハキハキと話して好感が持たれやすい事を、コミュニケーション能力が高いとは自分は思わない。

相手の発言した事してない事を含めて、相手の発言の意図する論理を、積極的に読み取ろうとする人こそ、コミュニケーション能力が高いと自分は考える。

 

そして自分の経験から、国語力が高い人は、コミュニケーションの際に2つのパターンを同時に使い分けて、相手の発言を理解しようとしていると感じた。ここで指す「国語力が高い人」は、前章で説明した「国語力に秀でた大学の友人3名」である。

全員イケメンである事に加えて、コミュニケーション能力も総じて高い事に嫉妬したのは一度きりではないが、この文章とは全く関係ない。

 

日本語って難しい

誰かと会話している際に、両者で使用している単語が同じであるにも関わらず、想定した単語の示す意味の認識が異なっているため、会話が成り立たなかった事はないだろうか。例えば、「あと少し」の示す範囲が2人で異なっていた場合など、である。

「単語が示す範囲は人によって異なっている」事を踏まえて、会話のパターンと、高い国語力について説明する。

 

会話のパターンは2種類あると思っている。一般的な人は、どちらか1つのパターンのみで会話しているのではないだろうか。

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この図は、人の会話パターン2種類を比較し、説明するために作成したものである。

 

まず、「論理思考」の人の発言を説明する。

特徴としては、言葉が示す範囲を正確に理解している(発言した言葉の範囲が比較的狭い)。さらに、発言する言葉の範囲が、以前に発言した言葉の範囲と重なっている。

 

次に、「イメージ思考」の人の発言を説明する。

論理思考の人たちは、説明したい論理の上に言葉を正確に載せていくが、イメージ思考の人たちは、説明したい論理に近い意味の言葉を、とりあえず思いつくままに聞き手に投げていくのである。そのため、発言した言葉同士が若干繋がっていない場合もある。

また、想定する言葉の意味の範囲も広く、論理思考の人からすると「それを言いたいなら、使うべき言葉は〇〇じゃなくて〇〇じゃないの?」と思われる場面も多いだろう。

小学生以下の子供は、ほとんど「イメージ思考」で会話していると思う。まだ語彙が少ないため、説明したい論理に近い言葉を、一生懸命聞き手に投げ続けるのである。

 

一般的に、論理思考の人の話し方は「頭が良さそう」、イメージ思考の人の話し方は(本来頭がよくとも)「アホっぽい」と捉えられる事が多いのではないだろうか。

極端にタイプが違う2人が会話すると、以下のような事が起きる。

 

[論理思考が話し手、イメージ思考が聞き手の場合]

論理思考の人は丁寧に言葉を並べていくが、イメージ思考からすると「もう、なんとなく言いたい方向性は分かったから、早く話終わらないかな…」となる。

イメージ思考は、発言された言葉のイメージから、いくつかのイメージを最もよく通る回帰直線のような論理を受け取るため、論理思考の話し方がやや冗長に感じる。

 

[イメージ思考が話し手、論理思考が聞き手の場合]

イメージ思考の人は、多少正確に言葉を使えなくとも、とにかく自分の言葉を相手に投げていくため、聞き手の論理思考の人からすると話があっちこっちに移動して疲弊しやすい。

この状況をキャッチボールで例えると、投手がイメージ思考、捕手が論理思考である。

イメージ思考の投手が投げたいコースを説明する時「とりあえず投げたいコースに何球も投げるから、勝手に投げたいコースを把握して」という状況になる。

一方で、論理思考の捕手からすると、結局投げてるコースがバラバラで、捕る自分が疲れてしまう。

 

以上はとても極端な例である。コミュニケーションする場合に、意図的に相手の会話パターンに合わせて、発言または相手の発言を捉える事で、相手の発言を深く理解できる人たちが、前述した「国語力に秀でた大学の友人3名」である。

彼らは3人は自分と同じ学部の同期で、それぞれ「同じクラスのイケメン」「(お馴染みの)富山出身の陽キャライケメン」「同じゼミでゼミ長を務めるイケメン」である。

 

彼らは、自分の意図を正確に伝えるため、基本的に論理思考で発言するが、そのレベルが高く、非常に丁寧に言葉を選んで発言している。特にそのレベルが高いのは「富山くん」である。

彼らはまた、聞き手になる際に、相手が論理思考で発言するか、イメージ思考で発言するか注意深く判断している(と勝手に筆者は思う)。若干示したい内容と異なるが、大雑把にいうと「相手のレベルに合わせて発言する、聞く」のが上手いのである。このパターンの使い分けが最も上手いと思うのは「ゼミ長くん」である。

さらに、コミュニケーション能力が高い彼らは当然「国語力」も高く、その中でも作品から意図を感じ取る事ができるのは、圧倒的に「同じクラスくん」だと思う。また、「教養」が最も高い(深い?)のは「富山くん」である。

 

自身の頭の中のパターンを変えながら会話することは難しい。

しかし「自分と違うパターンだから発言の意味がわからないのは相手のせい」と、責任を相手に押し付けるのは、なんというか頭が悪い人の考えだと自分は思う。

大学の友人3名の能力は高く、空気が読めなかったり、映画鑑賞や読書を楽しむ力が無い自分は彼らに憧れを持っている。

 

文転して彼らのスゴさを実感できた、という話。