「守・守・守」の人は、学問の戦略を学ぶべきという話

 正解を守ってばかりの人

「守・破・離」という言葉が好きだ。師の教えを守り、身につけた後は自分で型を生み出していく、といったような成長のプロセスを表しているが、よく言われる「PDCAサイクル」と似たような言葉である。意識高い系のような言葉では無く、教養が感じられる気がして、自分は守破離の方が好きだ。

 

タイトルの「守・守・守」は、他の記事でも書いたような「教えられた知識・正解に固執している人」を表現している。もちろん守が抜けた「破・離」だけでもダメで、各要素間で調和が取れていることが望ましいのは言うまでもない。

しかし、ここでは自分の周りによく見られる、師の教えを守ってばかりのタイプについて考えたい。

以下の内容は、大学でレポートや論文を書いた人にきっと伝わると思う。

 

学生に求められること

教えられた正解に固執してしまうのはなぜか。それは受験勉強に置いて合理的だからである。例えば、ある数学の問題で解法がわからなくとも、解放自体を暗記したことがある人もいるのではないだろうか。

学習において、理解できずとも「それはそういうものだ」と割り切って学習を続けなければいけない場面もあるが、それだけに偏ってはいけないだろう。

とは言え、正解を暗記することが、受験勉強において一定の合理性を持っていることは確かであり、学校は塾から暗記自体を求められる事が多い。

 

そして、受験を終えた大学生のうち、就職活動を行う人たちは嫌でも「自分らしさ」の表現を求められる。ここで、受験勉強で求められ良しとされた「正解の暗記」と、就活で求められる「個性の表現」のギャップに苦しむ人は少なくない。

「元気が良い」や「マナーを理解している」など、企業から求められる要素にある程度の方向性はあるが、やはり表現方法は様々であり、受験勉強と同じようにはいかないだろう。

 

ここで、受験勉強(画一的な正解が求められる)と就職活動(自分なりの個性の表現を求められる)の間を、「大学での勉強」が結んでいると自分は考える。

 

高校までの勉強と大学での勉強の違い

高校までの勉強と大学での勉強の違いは、勉強する内容を「ある程度間違いないと扱うかどうか」にあると自分は思う。

高校の勉強においては、知識が正解として暗記される事に関しては、ほぼ問題ないだろう。しかし大学の勉強では、例え教科書に書いてある内容であっても、普遍的に当てはまる概念として暗記する事は危険である。つまり、教科書に書いてある内容が、どのような文脈で語られ、どのような場合に当てはめられるべきか、自分で考える余地(必要)があると思う。

そして、話の本筋とはズレるが、その傾向は自然科学よりも人文・社会科学に色濃く現れる。人が関係するかしないかで、どんな場面を想定して説明されたのか、つまり文脈に依存するかしないかが大きく変わってくるのである。

なんだか説明が下手なので伝わっていないと思うが、次の章で社会科学を例に説明するので、きっと伝わると思う。

 

経済・経営の学問としての戦略

自分は経済学部で経済・経営を一応勉強した事になっているので、これらを例に「教科書の内容を無批判に受け入れる限界」について説明する。

 

経済学の視点は「みんなが幸せになる社会の仕組みは何か」だと思う。

そして、おなじみの「完全競争による需要と供給の一致」で「余剰(1人1人の満足の総和)」が最大化される、という内容を学ぶ。ここまでは多くの人が知っている内容だろう。

しかし、経済学の教科書の多くではその後「想定されている需給のマッチングは本当に適切に行われるのか?」という内容が続く。例えば「情報の格差(非対称性)による市場の失敗」が挙げられる。

保険に入っている人が全員、「病気になっても保険金が降りるから、健康には気を使わない」という行動を取っても、保険業者は人々の行動を観察することができない。そのため、保険加入者がリスクを大きく取りすぎ、そのリスクを一部負っている保険業者が損をしてしまい、結果的に効率的に市場が機能しない(保険を供給する人がいなくなる)という可能性がある。という説明が、経済学の教科書にはだいたい載っているはず。

他にも、市場原理自体が良いのか?という視点の研究もあり、みんなの持つイメージと違っているのではないだろうか。

ここでは、教科書で習った「需要と供給で余剰が最大化されるという経済学」に意味がなかったという話がしたいわけではなく、むしろ逆で、経済学は発展中という事を示したい。じゃあ、他の学問はどうなのだろうか。

 

経営学の視点は「なぜその企業だけ儲かるのか」だと思う。

経営学の教科書が企業の利益の源泉とみなす要素として「経営資源」や「外部環境」が議論されてきた。

経営資源が希少かつ他社が模倣困難で、組織がその経営資源を活用できる場合、その経営資源を持つ企業は競争に優位だと説明する理論がある。

しかしこの理論は「儲けやすい資源を持つ企業は儲けやすい」という論理で、結局何も説明していることにならない(tautology/同義反復)と批判される事があるらしい。確かに言われてみればと思う。

一方で、業界には「儲かりやすい業界」と「そうでない業界」があるとして、企業を取り巻く産業構造(企業同士や、顧客、原料供給者との力関係)には、そもそも有利不利があると説明する理論もある。

しかしこの理論も、「同じ業界に属する企業間にも、儲ける力には差が存在する」事を説明できてないと指摘されることもある。

見てわかるようにこれらの理論は補完関係にあって、どちらの方が正しいという議論にはあまり意味がない事がわかる。

 

この2つの理論は説明したい部分が違う、つまり「何を解明し、何を解明しないか」という研究の戦略が違っている。他にも、例えば経済学の一部のような、単純な数式モデルで大体の事を説明しようとする場合もあるし、経営学のケース分析のように単一の事例を深く研究する(ただし他の事例に当てはまるかは分からず)場合もある。

 

研究の戦略として、一番わかりやすいのはマーケティングの教科書に出るような「消費者を性質別に分類し、分類のうちの1つを狙って宣伝する」みたいな理論だと思う。正直この理論に沿って販売するだけじゃ上手くいく訳が無い。成功している企業は「この理論を結局どうやって実践するか」という部分が天才的なわけで、多くの企業の当てはまるまで抽象的にしてしまうと、実践的には使えない(基本中の基本ではあるけど、これだけでは上手くいかない)。

これが意味するのは、マーケティングは「なぜこんなに売れたか」を説明するのが目的で、「たくさん売る事」自体を目的にはしてないという事だと思う。

結局、学問の戦略上、説明できる部分とそうでない部分があるだけだと自分は思っている。

 

教科書に載っている内容を使って話すとき、それが正しいと説明できる範囲がどこからどこまでなのか、理解している必要がある。特に、内容が自然科学でない時には一層気をつける必要がある。

それは、元になった研究が何を捨てて何を得ようとしたのか、理解する事と同じである。また、理解した上で使う理論を選ぶには、自分の頭で考える事が必要である。

誰かが言った正しい事に拘らず、自分で上手く考えを使い分けていくことは、受験勉強と就活の間のステップになるんじゃないかという話。