セント・フォースの経営戦略について

今回は適当に書きます

ある企業の経営について考えを書こうと思っていたが、肝心の対象にする企業が思いつかなかった。しかし、今日テレビを見ていて思いついたので書こうと思う。

アナウンサーに関するテレビ番組を見ていて、セント・フォースの経営について思ったことを軽く書く。

 

セント・フォースのポジショニング?

セント・フォースフリーアナウンサーに限定した事務所である。多くの有名フリーアナウンサーが在籍しており、ホームページを確認すると関西部門など合わせてだいたい100名のアナウンサー(タレント?)が在籍している。

今でこそ応募者が多いが、1994年ごろに成立された当時は経営が大変だったという。

設立者は「フリーアナウンサーに絞った事務所」という、当時は見られなかったポジショニングを戦略的に行ったらしい。

初めは、このポジショニングこそが、現在に到るまで事業を継続できた要因だと自分は思っていた。しかし、番組を見続けた限り、そうでも無いようだ。

 

急なアナウンサーの需要を埋めるセント・フォース

事務所から人気アナウンサーが輩出され始めてから、セント・フォースの経営がうまく行き始めたようだ。一旦、人気アナウンサーが輩出されれば、事務所への仕事の依頼も増え、事務所への応募者が増えるなど、良いサイクルが回りそうなのは想像がつく。

そもそも、セント・フォースに仕事がまわってきたきっかけは、各テレビ局が朝4時からのニュース番組を放送し始め、その担当アナウンサーの依頼が来た事が始まりらしい。やはり、各テレビ局がアナウンサーを増やそうと思っても、すぐに採用し局内で育成することは難しいため、セント・フォースが利用されやすかったのであろう。

製造業においても、他社ブランドの製品を製造するメーカーが存在する(OEMと呼ばれる)。なぜそのビジネスが成り立つかというと、あるメーカーが需要に合わせて工場を新しく作るよりも、OEMを行った方が費用がかからないからである。すぐに製品を作って売った方が販売の機会損失になりづらく、工場を建てた後に需要が低下するリスクを抱えなくて済むのである。

 

話を戻すと、アナウンサーは専門性が高い職業であるため、育成に時間がかかる。そのため、セント・フォースのように需要の増加を吸収する業態が成り立つのである。

さらに、報道だけでなくアイドルのようなタレントとして女性アナウンサーが扱われ始め、女性アナウンサーの需要が当時は高まっていたのでは無いかと思う。

 

過酷な局アナとしての働き方とフリーアナウンサー

そして、テレビ局に在籍する女性アナウンサーの働き方が、当時は(当時も?)厳しかったようだ。仕事の内容が知らされていたものとは違う事が多々あったり、本人があまりやりたくない内容の仕事も多くやらされていたであろう。ここで、アナウンサーがフリーで活動する理由として多いのが、局アナより自由に働けるからという理由である。

セント・フォースでは、依頼された仕事を受けるかどうか、1つ1つマネージャーと話し合うらしい。また、事務所に支払われた金額のうち、アナウンサー本人に支払われるギャラの割合がテレビ局と比較して高いらしい。

この、フリーの働き方を可能にしているのは、交渉力の逆転だと自分は想定する。局アナ時代はテレビ局に雇用されているため、テレビ局側に交渉力が存在する。しかし、フリーになってからは、テレビ局から事務所側にオファーをしないといけないため、断る権利などの交渉力はアナウンサー側にあると考えられる。

このような交渉力の逆転が、フリーアナウンサーの自由な働き方を可能にしており、セント・フォースは仕事の受け口として役割を果たしていると考えられる。

 

セント・フォースとミスコン

セント・フォースの採用する経路は3つあるという。元局アナ・ミスコン・一般応募だそうだ。この中でミスコンに注目したい。大学で行われるミスコンのグランプリが発表されたその場で、セント・フォースはスカウトするらしい。ミスコンは大学の学校祭でグランプリが発表される事が多く、セント・フォースのスカウトの時期と、局アナの採用の時期では前者の方が早いのでは無いだろうか。このスカウト採用は、有望なアナウンサー候補を早期から押さえられるという効果もあるのでは無いだろうか。

しかしながら、セント・フォースから有名なアナウンサーが輩出されなければ、ミスコン採用は成功しないわけで、アナウンサーになる手段として認知されている事が、採用の前提になっているだろう。

 

セント・フォースの経営から学べる事

何かを調べたら、他の何かに利用できそうな学びを引き出すべきだと自分は思う。

 

セント・フォースの成功は、最初に有名なアナウンサーが輩出された時点から始まっている。また、そのきっかけは、代替が難しい人材であるアナウンサー需要が増えたという偶然である。

セント・フォースの「フリーアナウンサーに限定した事務所」という戦略的ポジショニングは素晴らしいが、それが良いタイミングで重なることによって成功に結びついたと考えるべきでは無いだろうか。

この事例から、成功した戦略は絶対的に有効だと判断すべきではなく、戦略がとられたタイミングも考慮すべきである、という学びを自分は引き出したい。

 

セント・フォースが採用する女の子可愛すぎい!!最高!!という話

 

〝役立つ〟勉強について

微分積分なんて使わないじゃん

学校の授業で、こんなの必要ないと言われる教科や分野がある。必要ないという主張の理由は「日常生活や会社で使わない」が多くを占めるだろう。そういう人たちに「では何が役に立つのか」と問えば「英語や簿記(会計)やプログラミング」という答えが帰ってくるはずである。

 

これらの批判の一部に〝微分積分不要論〟がある。これに対する反論として「数学の発展が、数学を勉強しなくても良い世界を生み出した」という反論がある。

自分はこの反論が好きだが、この反論には不十分な点があると思う。

現在ほど世の中が発展しても、数学は今の授業で教えられる程度学ぶ必要があり、他の教科においても同様のことが言えると考えている。

 

そういう人たちの気持ちは理解できる。しかし、現在まで受けてきた教育の中で、役に立たなかったものは一つも無いと自分は断言できる。

学校教育の中には無駄があると批判する人たちの中に、大きく欠けている意識がある。

学んだ事を自分で活かす意識である。学んだ事は勝手に活きるのではない。

 

面接官「あなたの研究を中学生でもわかるように説明してください」

大学受験の時、文系を選択していた自分は「役に立ちそう」という理由で経済学部を受験した。経済・経営を学べば、就職活動が上手くいくと思っていた。実際は、理系院生と美男美女が強いという事が(実感として)わかった。

顔の良し悪しはともかく、理系院生が就職活動において、企業から人気がある理由を理解できない人はあまりいないのではないか。どうやら、数字を扱う能力に加えて、そもそもの思考力の高さが企業に評価されているようである。

 

ここで、企業側が理系院生の研究成果を100%理解できていたケースは稀ではないかと自分は思う。自分の大学の資源系(詳細不明)の研究室に、総合商社の内定の枠が用意されているという話は聞いたことがある。これは理系院生の研究内容を考慮したケースだが、このような事例は少ないだろう。

研究の内容がそのまま活かされなくとも、学習することで鍛えられた根本的な能力は評価されるようである。また、研究で培われたブラック労働への耐性が、入社後に最も役立ったという話も聞くが、この記事とは関係がない。

 

抽象化について

経済学は役に立たないという考えを聞くことがある。「数式モデルは実態を完全に反映できていない」という指摘が多い気がする。

自分の考えはむしろ逆で、少ない変数や単純なモデルで、まあまあな部分を説明できていることがすごいと思う。もちろん、実態を完全に把握するために数式モデル〝のみ〟を使用するのは難しいと認める。

経済学の数式モデルのように、物事の具体的な部分を削ぎ落とし、シンプルに表すことが抽象化である。もちろん数式で表す必要はなく、例えば桃太郎の話をシンプルに表すと「正義は勝つ」である。

話を元に戻して、学校教育の中には無駄があると批判する人たちは、勉強で学んだことを抽象化することが苦手であるように感じられる。

 

例えば、英語を学習することで得られる成果は、英会話能力の向上だけではない。母語以外の言語が、どのような体系で成り立っているかを理解することに意味があると思う。当然だが、万国共通の正解となる言語はなく、それぞれの国や地域で独自の言語が発達しているはずである。長い間使用され、洗練されてきた言語の体系を学ぶこと、さらに言語を比較することで、それぞれの言語を使用して表現できる範囲の限界を学べるのである。

また、自分の文章では表現できないが、日本語と英語の表現から文化の違いを感じ取ったこともある。「〜ではありませんよね?」という質問に対して、そのような経験があった場合、日本語では「いいえ(文章を否定)」、英語では「はい(自分の経験を肯定)」と回答するだろう。

「空中を漂っている風船が、急に飛んで行った」という文章を聞くと、東洋の人は風が吹いたと推測し、西洋の人は風船に穴が空いたと推測するという話を聞いた事がある。

なんとなく、英語を話していた西洋の人たちは自分本位でコミュニケーションをとる文化があるのだろうかと、当時の自分は感じた。

 

そして、数学からは抽象化する能力自体を学べると思う。

「メモの魔力」という、DeNAにてSHOWROOMを立ち上げた前田裕二氏の書籍がある。この書籍では、ある事象を抽象化し、他の事象に当てはめて考える事の有用性が説明されている。抽象化を実践しやすく説明したという意味で、この書籍は大変有用であると自分は思う。しかし、この本を読まずとも数学を学べば抽象化の方法を学べるな、とも自分は考えている。

 

スキル病患者

学校教育の内容に無駄があるという批判には「学習内容の抽象化」と「学習内容を自ら活かす姿勢」が欠けている。もちろん、英語やプログラミングといった「スキル」を有用性を否定する訳ではない。

しかし、スキル偏重の思考は危険だと思う。それらのスキルを活かすためには、スキルを使いこなすための能力が必要であり、それこそが一見無駄に見えるかもしれない学校教育で鍛えられるのだと自分は思う。

 

会社で頭空っぽのスキル病患者には負けないぞ!という話

 

 

 

 

身の程を知ることについて

今までで一番長い記事かもしれないが内容は薄い。

 

コンプレックス

突然だが、自分は学歴コンプレックスである。

対して頭が良くもないのに、偉そうに「頭がいいことについて」とブログを書いている事実から、御察しの通りである。

 

それは、自分の就職活動にも現れている。

就活生の人気企業ランキングには、コンサル業界の企業がずらりと並んでいる。これらコンサル業界の面接方法として「ケース面接」や「フェルミ推定」といった地頭テストが行われる事が知られている。

「ある程度の大学出身である自分でも、内定は夢ではない」と心の中で思っていたのであろう。自分は、就職活動で淡い期待を胸にコンサル業界のみを受け続けた。

言うまでもなく結果は散々で、コンサル業界と位置づけられながらも、実態はSIerのような企業に入社することになった(能力の無い自分を拾ってくれた唯一の企業で、この企業には非常に感謝している)。

 

また、自分の卒業論文のテーマにも、学歴コンプレックスが現れている。

自分の卒業論文のテーマは「大学発ベンチャー企業」である。大学の理系研究者(教授から学生含む)が、研究している技術を基盤に設立するベンチャーであり、GoogleやHewlett-Packardは大学発ベンチャーである。

このように「ビジネスとアカデミックの間(曖昧な表現だが)」である大学発ベンチャーに興味があり、テーマとして選択したと認識していた。しかし、論文を完成させた後、このテーマと自分のコンプレックスとが結びついている事に気がついた。

自分は高校生の時に理系選択から文系選択に変更している。理系の科目が得意だったが、理系のクラスに馴染めず、将来やることも決まってなかったので変更したのである。

きっと、就職活動を終えて卒業論文に取り掛かる自分には、高校の文理選択が正しかったかどうか未練があり、文理の狭間のような「大学発ベンチャー」を対象にしたのではないかと考えている。

卒業論文を書いている途中はそんな意識は無かったが、書き終えて実感したのである。

 

そもそも、なぜ自分がコンプレックスの直視にこだわるのか。

それは、コンプレックスを「自分で直視できないほど理想と現実のギャップが大きいところ」だと思っているからである。

きっとコンプレックスにしている部分は、何らかの理由で「自分が非常に達成したいこと」である可能性が高い。

しかし、それは同時に、達成したい理由を「自分にとって耳障りの良い」合理的な理由に歪めてしまうほど、直視することが難しい。

 

「負けを克服する方法?」「勝つことよ」

モリーズ・ゲーム」という実話を元にした映画がある。

観たいがまだ観てないという方は、以下ネタバレが含まれるので読まないで頂きたい。主人公は、美人でありながらスポーツも勉強もトップクラスにできるモリー・ブルームである。幼い頃は、心理学者の父にスパルタ指導を受けながら、モーグルのオリンピック選手候補に選ばれた。しかし、不運にも怪我をして引退し、その後ハーバード大学ロースクールを卒業し、違法スレスレのカジノを個人経営することになる。このカジノは芸能人や危ないビジネスで大金を稼いだ男たちを相手にしており、非常に儲かっていたが、結局FBIに摘発されて失敗してしまう。

そして、この映画のラストシーンは心理学者の父による、モリーのカウンセリングである。モリー本人は、自身の優れた頭脳を生かし、誇りを持ってカジノを経営していたと思い込んでいた。しかし、自分(父)のスパルタ指導がトラウマで、「強い男」を支配することが本当のカジノ経営の動機だったと、父に指摘される。

結局のところ、コンプレックスがモリーのカジノ経営を駆り立てていたのである。

 

ここで自分が重要だと思う事は、「なぜそれがやりたいのか」自身で正確に認識できていたかどうかである。

例えば、モリーが「でもやっぱり私は強い男を抑圧したい!」とカジノ経営を再開させても、(それはそれで問題あるが)自分のやりたい事を正確に把握した上で行動しているという意味で、自分は良いと思う。

 

自分の意見だが、コンプレックスの認識から無意識に逃げている事が原因で「自分のやりたい事」を把握できていない場合、それを達成する事は難しい。 

しかし、そもそもコンプレックスの認識は、よほど意識的に行わない限り難しい。

ここで、認識できているかどうか確認するための、例をいくつか提示する。

 

御社を志望する理由

まずは就職活動で企業を選ぶ基準として、重視していた事を振り返ると、自己理解がどの程度であったか把握できるだろう。

自分への理解が深い場合、自分がやりたい事の範囲も自然と狭まり、志望する仕事の範囲も特定されるはずである。

しかし、企業の志望理由に、具体的な業務内容が全く含まれていない場合、自分に対する理解が浅いと言える。また、業務内容が含まれていれば必ずしも、自分を深く理解しているとは言えない。

 

例えば

「自分のITスキルを活用したい」「商社で英語を使って働きたい」「ベンチャー裁量権を持って働き、成長したい」「働きやすい職場である」「コンサルで起業するための経験を積みたい」「能力主義成果主義である」「年収が高い」…などである。

これらは全て手段が目的化している。このレベルの理由だった場合、自己理解は浅いだろう。

 

また、認知度が高い特定の業務を志望していた場合、自己理解が浅い可能性がある。

例えば銀行で、M&Aやトレーダーをやりたいと志望していた場合。それは世間のイメージに流されている可能性が高い。

同様に、起業を志している場合も「起業してでも達成したい事は何か」に答えれない場合、自己理解は浅いだろう(成功するかは別の話であるが)。

起業したい理由が「単に起業したいだけ」「誰かの下で働きたくない」や「一般的な人のレールから外れたい」の場合、その可能性がある。

 

卒業論文のテーマ

卒業論文のテーマが「自身の経験による学校教育の欠点」や「就職活動」の場合、学歴または内定先がコンプレックスであるかもしれない。

例えば自分は最初「地方による教育の格差」をテーマにしようとしていた。

無意識のうちに、自身の納得いかない事の原因を、地方出身であることに帰着させたかったのであろう。(その後も結局、コンプレックスに関係したテーマを選んで恥ずかしい限りである。)

 

これはブログの内容にも同じことが言えそうである。

例えば、自分のように頭の良さや勉強について記事を書いた場合である。

しかも、勉強ができない原因を自分に帰着させていない場合、つまり原因を環境のせいにしている場合、それがコンプレックスである可能性が非常に高い。

 

このように、卒業論文のテーマとして選んだ対象と、自分の弱みは関係あるかもしれない。

 

自分の知り合い(女性)で、卒業論文でのテーマも含め、学校教育の問題点、特に教師の指導力不足を主張し続けている人がいた。

教師に冤罪を掛けられ、結局自分がやったと言わされた経験があるらしい。

その人は特に外国語が堪能でもないが、現在は海外に住んでいる勇気のある人である。(自分の推測だが)彼女は人が自由に意見できない事に対して、非常に強い反発心を持っていたた。そのため、海外に移住するという彼女の選択は、意見が受け入れられない事に対しての強い反発だったのではないか。

彼女はとてもバイタリティのある人で、海外でも問題なく生活しているが、普通の人が彼女を真似するのは危険である。

 

以上のように、自分が注意深く決定した事には、無意識下の感情が反映されている場合がある。

 

好意を持った相手

自分が今までに好意を抱いた人を思い浮かべてほしい。

自分の場合、運動が得意な人が多かった。それは自分の運動への苦手意識に起因している。苦手意識が無くなった大学生から、運動が得意な人に惹かれることは無くなった。

 

惹かれる相手に対して無意識のうちに、自分に足りない部分を求めている可能性が高いことは、直感的に理解できるだろう。

 

自分の大学の友人は現役高校生に好意を抱いた事がある。

彼は当時大学4年であり、相手は友人と同じ高校の出身である。そして彼は、後輩へ好意を持った事にコンプレックスが関係していると自覚したのである。

この友人は、能力に自信を持ちながらも、自分の弱みを直視できるという事に関しては天才的である。今回のタイトルでもある「身の程を知る」能力が、自分(筆者)が知る人物の中でダントツで高い。

彼は、学歴コンプレックスが、好意を持った要因だと分析した。大学受験を終えていないその後輩と、まだ多くの可能性があった受験生時代の自分とを、無意識に重ね合わせたと述べている。

彼は弱みを直視できるため自己理解が深く、常にやりたい事に向けて努力できている。

 

真似

最後に、何かをまねする、もしくは演じている場合、そこに自分の弱みが反映されている可能性がある。

例えば何かの作品に出てくる賢いキャラクターの口調や表現を真似している場合、もっと賢くなりたいという意識の現れである。また、架空ではなく実在する人物の口調や表現を真似ている場合も、同様である。それらはSNS上の発言で顕著に現れやすい。

周囲の人々が持つ自分のイメージと、TwitterなどSNS上の自分とが全く異なっている場合 、それは自分の理想像をSNS上で演じてる可能性が高い。 

「これが俺の/私の本性だ」と言わんばかりに、必要以上に口が悪い場合や、過激で面白い事を言ってみようとしている場合が多い。

大変恐縮だが、それは別にあなたの本性では無く、単にあなたが「こうなりたい」と思う自分を演じているだけである。自分の表現は自由にして頂いて構わないが、そこまでするほど自分を変えたいなら、現実と理想のギャップを潔く認め、努力した方が良い。

 

長い話の最後に

自分の理想と現実のギャップを埋めるために、時には悲惨な自分の現実を直視する必要がある。その場合、コンプレックスが認識を無意識に歪める場合があるため、積極的に自分の弱みを認知すべきである。

 

この話が理解できない場合や、この話に嫌悪感がある場合、自身の弱みを直視する事を無意識に避けている可能性が非常に高い。

 

この話が理解できるが、弱みを直視せず生活する方が自分は楽だと感じた場合、それも一つの方法である。

ただし、自分はそういう、向上心が無く自分を守りたいだけ人が非常に苦手である。

 

最後に、この話が理解できて受け入れられる人たち、きっとその人たちは自分と仲が良い人たちだろう。あなたたちのそういうところが好きです。

 

素直で向上心のあるみんなが好き♡という話。

 

 

 

国語力について

LALALANDと教養

2019年2月8日金曜日の金曜ロードショーはLALALANDだった。

この映画は、過去の名作ミュージカル映画のオマージュが散りばめられている事で知られている。それぞれの名作映画の模倣ネタを全て理解して、やっとLALALANDの面白さ全てを享受できたと言えるのではないだろうか。

もちろん、何も知らない人がこの映画を観て満足することに異論はない(筆者も全く知らないが楽しめた)。

ただ映画に限らず、小説やドラマのような作品の面白さを、全て感じる事ができるかどうかという意味で、個人に能力の差が存在あすることを否定できないだろう。

その差は、事前に知っている作品に関する知識と、作品内の細やかな表現を感じ取る能力の2つによって発生していると自分は思う。

LALALANDで言えば過去のミュージカル映画の知識の有無が前者にあたる。

筆者は、この「作品を楽しむために必要となる様々な知識」が「教養」であると認識している。

後者の感じ取る能力に関しては、内容の関連性を考慮して次章で紹介する。

 

「スゴい」文系

前章とずれた話から入るが、自分は高校2年まで理系のクラスで、3年次から文系のクラスに移り、大学の文系学部に入った。大学に入るまで「数学ができる人」が理系を、「数学ができない人」が文系を選択しており、文系は理系の下なのだと思っていた。

また、理系の数字を扱う能力に感心した事があったが、文系の国語力に対して感心したことは無かった。

しかし、大学で国語力に秀でた3人の友人に会い、自分の考えはまるっきり変わった。

まずは、3人うちの1人との体験を説明する。その1人とは、入学してすぐ友達になった、同じクラスのイケメンである。

 

大学2年の頃、本田翼と福士蒼汰が出演するドラマの「恋仲」が流行っていた。ドラマ中で、本田翼が福士蒼汰にワンピースの51巻を貸すシーンがあった(はず?)。

同じクラスのイケメンは、この51巻は「こいなか」の「こい(51)」を示しており、ドラマ制作者が適当に選んだ訳ではないと主張した。ドラマ中で巻号について言及されるシーンは無かったが、自分はこの主張が正しいと思ったし、ドラマ中の細やかな表現を感じ取る能力に驚かされた。

これが、前章で示した「作品内の細やかな表現を感じ取る能力」である。LALALANDのオマージュのように、作品の表現全てが分かりやすい訳ではないだろう。

筆者は、これが「国語力」であると認識している。

 

国語力とコミュニケーション能力

話は変わって、この国語力を、いわゆる「行間を読む力」に近しい能力と捉えた時、国語力が高い人ほどコミュニケーション能力が高いと自分は思う。

清潔感のある美男美女が、ハキハキと話して好感が持たれやすい事を、コミュニケーション能力が高いとは自分は思わない。

相手の発言した事してない事を含めて、相手の発言の意図する論理を、積極的に読み取ろうとする人こそ、コミュニケーション能力が高いと自分は考える。

 

そして自分の経験から、国語力が高い人は、コミュニケーションの際に2つのパターンを同時に使い分けて、相手の発言を理解しようとしていると感じた。ここで指す「国語力が高い人」は、前章で説明した「国語力に秀でた大学の友人3名」である。

全員イケメンである事に加えて、コミュニケーション能力も総じて高い事に嫉妬したのは一度きりではないが、この文章とは全く関係ない。

 

日本語って難しい

誰かと会話している際に、両者で使用している単語が同じであるにも関わらず、想定した単語の示す意味の認識が異なっているため、会話が成り立たなかった事はないだろうか。例えば、「あと少し」の示す範囲が2人で異なっていた場合など、である。

「単語が示す範囲は人によって異なっている」事を踏まえて、会話のパターンと、高い国語力について説明する。

 

会話のパターンは2種類あると思っている。一般的な人は、どちらか1つのパターンのみで会話しているのではないだろうか。

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この図は、人の会話パターン2種類を比較し、説明するために作成したものである。

 

まず、「論理思考」の人の発言を説明する。

特徴としては、言葉が示す範囲を正確に理解している(発言した言葉の範囲が比較的狭い)。さらに、発言する言葉の範囲が、以前に発言した言葉の範囲と重なっている。

 

次に、「イメージ思考」の人の発言を説明する。

論理思考の人たちは、説明したい論理の上に言葉を正確に載せていくが、イメージ思考の人たちは、説明したい論理に近い意味の言葉を、とりあえず思いつくままに聞き手に投げていくのである。そのため、発言した言葉同士が若干繋がっていない場合もある。

また、想定する言葉の意味の範囲も広く、論理思考の人からすると「それを言いたいなら、使うべき言葉は〇〇じゃなくて〇〇じゃないの?」と思われる場面も多いだろう。

小学生以下の子供は、ほとんど「イメージ思考」で会話していると思う。まだ語彙が少ないため、説明したい論理に近い言葉を、一生懸命聞き手に投げ続けるのである。

 

一般的に、論理思考の人の話し方は「頭が良さそう」、イメージ思考の人の話し方は(本来頭がよくとも)「アホっぽい」と捉えられる事が多いのではないだろうか。

極端にタイプが違う2人が会話すると、以下のような事が起きる。

 

[論理思考が話し手、イメージ思考が聞き手の場合]

論理思考の人は丁寧に言葉を並べていくが、イメージ思考からすると「もう、なんとなく言いたい方向性は分かったから、早く話終わらないかな…」となる。

イメージ思考は、発言された言葉のイメージから、いくつかのイメージを最もよく通る回帰直線のような論理を受け取るため、論理思考の話し方がやや冗長に感じる。

 

[イメージ思考が話し手、論理思考が聞き手の場合]

イメージ思考の人は、多少正確に言葉を使えなくとも、とにかく自分の言葉を相手に投げていくため、聞き手の論理思考の人からすると話があっちこっちに移動して疲弊しやすい。

この状況をキャッチボールで例えると、投手がイメージ思考、捕手が論理思考である。

イメージ思考の投手が投げたいコースを説明する時「とりあえず投げたいコースに何球も投げるから、勝手に投げたいコースを把握して」という状況になる。

一方で、論理思考の捕手からすると、結局投げてるコースがバラバラで、捕る自分が疲れてしまう。

 

以上はとても極端な例である。コミュニケーションする場合に、意図的に相手の会話パターンに合わせて、発言または相手の発言を捉える事で、相手の発言を深く理解できる人たちが、前述した「国語力に秀でた大学の友人3名」である。

彼らは3人は自分と同じ学部の同期で、それぞれ「同じクラスのイケメン」「(お馴染みの)富山出身の陽キャライケメン」「同じゼミでゼミ長を務めるイケメン」である。

 

彼らは、自分の意図を正確に伝えるため、基本的に論理思考で発言するが、そのレベルが高く、非常に丁寧に言葉を選んで発言している。特にそのレベルが高いのは「富山くん」である。

彼らはまた、聞き手になる際に、相手が論理思考で発言するか、イメージ思考で発言するか注意深く判断している(と勝手に筆者は思う)。若干示したい内容と異なるが、大雑把にいうと「相手のレベルに合わせて発言する、聞く」のが上手いのである。このパターンの使い分けが最も上手いと思うのは「ゼミ長くん」である。

さらに、コミュニケーション能力が高い彼らは当然「国語力」も高く、その中でも作品から意図を感じ取る事ができるのは、圧倒的に「同じクラスくん」だと思う。また、「教養」が最も高い(深い?)のは「富山くん」である。

 

自身の頭の中のパターンを変えながら会話することは難しい。

しかし「自分と違うパターンだから発言の意味がわからないのは相手のせい」と、責任を相手に押し付けるのは、なんというか頭が悪い人の考えだと自分は思う。

大学の友人3名の能力は高く、空気が読めなかったり、映画鑑賞や読書を楽しむ力が無い自分は彼らに憧れを持っている。

 

文転して彼らのスゴさを実感できた、という話。

 

 

 

「守・守・守」の人は、学問の戦略を学ぶべきという話

 正解を守ってばかりの人

「守・破・離」という言葉が好きだ。師の教えを守り、身につけた後は自分で型を生み出していく、といったような成長のプロセスを表しているが、よく言われる「PDCAサイクル」と似たような言葉である。意識高い系のような言葉では無く、教養が感じられる気がして、自分は守破離の方が好きだ。

 

タイトルの「守・守・守」は、他の記事でも書いたような「教えられた知識・正解に固執している人」を表現している。もちろん守が抜けた「破・離」だけでもダメで、各要素間で調和が取れていることが望ましいのは言うまでもない。

しかし、ここでは自分の周りによく見られる、師の教えを守ってばかりのタイプについて考えたい。

以下の内容は、大学でレポートや論文を書いた人にきっと伝わると思う。

 

学生に求められること

教えられた正解に固執してしまうのはなぜか。それは受験勉強に置いて合理的だからである。例えば、ある数学の問題で解法がわからなくとも、解放自体を暗記したことがある人もいるのではないだろうか。

学習において、理解できずとも「それはそういうものだ」と割り切って学習を続けなければいけない場面もあるが、それだけに偏ってはいけないだろう。

とは言え、正解を暗記することが、受験勉強において一定の合理性を持っていることは確かであり、学校は塾から暗記自体を求められる事が多い。

 

そして、受験を終えた大学生のうち、就職活動を行う人たちは嫌でも「自分らしさ」の表現を求められる。ここで、受験勉強で求められ良しとされた「正解の暗記」と、就活で求められる「個性の表現」のギャップに苦しむ人は少なくない。

「元気が良い」や「マナーを理解している」など、企業から求められる要素にある程度の方向性はあるが、やはり表現方法は様々であり、受験勉強と同じようにはいかないだろう。

 

ここで、受験勉強(画一的な正解が求められる)と就職活動(自分なりの個性の表現を求められる)の間を、「大学での勉強」が結んでいると自分は考える。

 

高校までの勉強と大学での勉強の違い

高校までの勉強と大学での勉強の違いは、勉強する内容を「ある程度間違いないと扱うかどうか」にあると自分は思う。

高校の勉強においては、知識が正解として暗記される事に関しては、ほぼ問題ないだろう。しかし大学の勉強では、例え教科書に書いてある内容であっても、普遍的に当てはまる概念として暗記する事は危険である。つまり、教科書に書いてある内容が、どのような文脈で語られ、どのような場合に当てはめられるべきか、自分で考える余地(必要)があると思う。

そして、話の本筋とはズレるが、その傾向は自然科学よりも人文・社会科学に色濃く現れる。人が関係するかしないかで、どんな場面を想定して説明されたのか、つまり文脈に依存するかしないかが大きく変わってくるのである。

なんだか説明が下手なので伝わっていないと思うが、次の章で社会科学を例に説明するので、きっと伝わると思う。

 

経済・経営の学問としての戦略

自分は経済学部で経済・経営を一応勉強した事になっているので、これらを例に「教科書の内容を無批判に受け入れる限界」について説明する。

 

経済学の視点は「みんなが幸せになる社会の仕組みは何か」だと思う。

そして、おなじみの「完全競争による需要と供給の一致」で「余剰(1人1人の満足の総和)」が最大化される、という内容を学ぶ。ここまでは多くの人が知っている内容だろう。

しかし、経済学の教科書の多くではその後「想定されている需給のマッチングは本当に適切に行われるのか?」という内容が続く。例えば「情報の格差(非対称性)による市場の失敗」が挙げられる。

保険に入っている人が全員、「病気になっても保険金が降りるから、健康には気を使わない」という行動を取っても、保険業者は人々の行動を観察することができない。そのため、保険加入者がリスクを大きく取りすぎ、そのリスクを一部負っている保険業者が損をしてしまい、結果的に効率的に市場が機能しない(保険を供給する人がいなくなる)という可能性がある。という説明が、経済学の教科書にはだいたい載っているはず。

他にも、市場原理自体が良いのか?という視点の研究もあり、みんなの持つイメージと違っているのではないだろうか。

ここでは、教科書で習った「需要と供給で余剰が最大化されるという経済学」に意味がなかったという話がしたいわけではなく、むしろ逆で、経済学は発展中という事を示したい。じゃあ、他の学問はどうなのだろうか。

 

経営学の視点は「なぜその企業だけ儲かるのか」だと思う。

経営学の教科書が企業の利益の源泉とみなす要素として「経営資源」や「外部環境」が議論されてきた。

経営資源が希少かつ他社が模倣困難で、組織がその経営資源を活用できる場合、その経営資源を持つ企業は競争に優位だと説明する理論がある。

しかしこの理論は「儲けやすい資源を持つ企業は儲けやすい」という論理で、結局何も説明していることにならない(tautology/同義反復)と批判される事があるらしい。確かに言われてみればと思う。

一方で、業界には「儲かりやすい業界」と「そうでない業界」があるとして、企業を取り巻く産業構造(企業同士や、顧客、原料供給者との力関係)には、そもそも有利不利があると説明する理論もある。

しかしこの理論も、「同じ業界に属する企業間にも、儲ける力には差が存在する」事を説明できてないと指摘されることもある。

見てわかるようにこれらの理論は補完関係にあって、どちらの方が正しいという議論にはあまり意味がない事がわかる。

 

この2つの理論は説明したい部分が違う、つまり「何を解明し、何を解明しないか」という研究の戦略が違っている。他にも、例えば経済学の一部のような、単純な数式モデルで大体の事を説明しようとする場合もあるし、経営学のケース分析のように単一の事例を深く研究する(ただし他の事例に当てはまるかは分からず)場合もある。

 

研究の戦略として、一番わかりやすいのはマーケティングの教科書に出るような「消費者を性質別に分類し、分類のうちの1つを狙って宣伝する」みたいな理論だと思う。正直この理論に沿って販売するだけじゃ上手くいく訳が無い。成功している企業は「この理論を結局どうやって実践するか」という部分が天才的なわけで、多くの企業の当てはまるまで抽象的にしてしまうと、実践的には使えない(基本中の基本ではあるけど、これだけでは上手くいかない)。

これが意味するのは、マーケティングは「なぜこんなに売れたか」を説明するのが目的で、「たくさん売る事」自体を目的にはしてないという事だと思う。

結局、学問の戦略上、説明できる部分とそうでない部分があるだけだと自分は思っている。

 

教科書に載っている内容を使って話すとき、それが正しいと説明できる範囲がどこからどこまでなのか、理解している必要がある。特に、内容が自然科学でない時には一層気をつける必要がある。

それは、元になった研究が何を捨てて何を得ようとしたのか、理解する事と同じである。また、理解した上で使う理論を選ぶには、自分の頭で考える事が必要である。

誰かが言った正しい事に拘らず、自分で上手く考えを使い分けていくことは、受験勉強と就活の間のステップになるんじゃないかという話。

 

 

 

 

 

 

頭が良いということについて

小学生から現在までで、自分が考えてきた「頭の良さ」について整理したい。

 

最近「頭の良さ」について考える機会が増えた。それに伴って「頭が良くなりたい」と思うことも増えた。後者に関しては、これから迎える社会人生活や、その後の人生が不安で、「苦労せずに結果を出す人生を送りたい」という甘えが根底にあるかもしれない。それはともかく、特に流れもなく自分の考えを書いていく。

 

何が「頭が良い」ではないのか

まずは自分は「知っていたからできた」を頭が良いとは判断しない。

自分は小学生の時は公文に通っていて、授業よりも進んだ範囲を学習していた。公文に通っていた人や友達を持った人ならわかると思うが、自主的に学習を進めた結果、授業の進度より公文の教材の方が進んでいることが多くある。

そして、クラスメイトが習っていない範囲の問題を解けると自慢し、担任の先生に「よくそんなこと知っているね!」と褒められていた友達が周りにいた事はないだろうか。

自分はそのくだらない自慢が嫌いで絶対にやらなかった。もちろん、そんなの「知っていたからできた」だけだから。

もちろん公文の学習の良さや自慢した人の努力は認めるが、自慢にはならないだろう、という話。

 

そして、これは話の本筋とはズレるが「努力してできた」も頭が良いとは判断しない。

中学の時に通っていた塾に、成績優秀な女の子の同級生がいた。その子は結局、北大医学部医学科に現役でありながら次席で入るという(その年は主席も現役らしいけど)、クソ優秀な子だった。けど、塾にいた時に「頭が良い」と思った事はなかった。なぜなら、その子は死ぬほど努力していて、その努力ならその結果出るわ、と思ったから。

もちろん、結果を出せる努力ができる事も才能だと思うし、その子の努力は賞賛されるべきだし、医学科に2位で入れる時点で地頭良いだろっていう事も認めるし批判する気は全然ない(そしてその子はめっちゃ良い子で正直非の打ち所はない)。

ただ、例えば大学の授業を一生懸命勉強して、自分がAだの秀だのとったしよう。一方で、定期テスト直前になって友達のレジュメを一生懸命印刷し、一夜漬けでB+とか優とかとっちゃうヤツがいたとしよう。自分だったら、ああ、負けたと思う。

 

自分が「頭が良い」と思った時

「頭良いわけではない」の話をしたところで、友人の発言を聞いて「敵わないな」と思うほど頭の良さを感じた瞬間が、人生に何回かあったので説明する。

 

さっきと同じ、自分が中学生で通ってた塾の話。

この塾は、周りのレベルが自分よりはるかに高く、相当な刺激を与えてくれた。自分のレベルを引き上げ、人生を変えてくれたと思う。

その塾の数学の授業中。中2.3くらいの時期で、内容は合同か相似の第一回の授業だったはず。(図は当時と正確に一致しないと思うけど説明のために作成した。)

先生の言うところによると、どうやら合同な三角形2つからできた、角a=角bを示さなければならないらしい(下図)。

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自分は、見たらそんな感じするけど、説明できるか?と思った。同時に、先生の説明にかぶせるぐらいの勢いで、頭が良いヤツ2人の発言がハモった。「同じのから同じの引いてるんだから同じじゃん。」

いや、そうなんだけど、なんで習ってないのにコイツらわかるんだろう、自分は敵わないと思った。

 

そして、さっきの図に、なんとなく円がかけそうだなと思った人は居ただろうか。

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言われたら当たり前の話なんだけど、円だから→こういう性質 の向きの思考はしてても、こういう性質を持っているから→円だよね、という思考ができるだろうか。

こういう思考が必要な問題を出されても、習っていない自分には解けなかった。周りの奴らは解けていて、敵わないと以前に増して思ったのは、中3終わり際の高校受験の時だったと思う。

 

そして、その後大学に入るまで、何回もコイツすごいと思う瞬間はあったが、特に印象に残っている話。

大学2年のゼミ選考の時。あるゼミの選考では、あるテーマについて何人かで議論し、結論を出す過程で個人それぞれの様々な能力を判断される、という選考方式が取られていた。就活のグループディスカッションと全く同じ。なんか声のでかい奴や慣れてる奴が通りやすい、と就活生から不満のあるグループディスカッションだが、当時の選考を受ける人たちにそういう経験や知識は無く、能力の差がちゃんと出る選考だったと思う(自分は落ちた)。

そのゼミの選考で、たまたま友達と同じグループになった。テーマは「無人島に行くとしたら何を持って行くか」でグループ全体で5.6人くらいだった。

話が始まると、案が多く出てきたが全くまとまらない。そこで友達が「議論を進める上で、認識や前提を一致させないと進みませんよね」みたいな内容を発言した。無人島に持っていく道具はカバンに入るくらいの大きさを想定しようとか、無人島での目的は1週間くらい生き延びる事だと仮定しようとか、そういう友達の発言によって結論が出た。

ここで、就活のグループディスカッションには「まず議論の前提をみんなで確認しなさい」というのお作法()がある事を説明したい。就活をしている人たちは気持ち悪いくらいに絶対やるし、自分もやった。自分を含めて、この人たちは就活セミナー(?)で作法を習っているから、絶対やるのである。

正直、このお決まりルールは気持ち悪いが、議論をする上では間違っていないと思う。そして友達はゼミ選考でやったことは、議論中に話が滞っている原因を自分で考え、その上で正解とされている「お作法」を発見するという離れワザである。

ゼミ選考中はもちろん、就活で作法を習った時に、あいつは自分でこれを考えたんだ、と二度驚いた。

もちろんその友達は選考に受かった。ただ後から話を聞くと、そのゼミ選考を見ていた先輩たちが、友達の頭の良さを適切に判断していたか疑問が残るが関係ない話である。

 

頭が良いとは結局何か

結局自分が考える「頭が良い」とは「知識の活用ではなく、自分が考えることで問題を解ける」状態の人だと思う。ここまで考えて、本で書いているような「頭が良い」の定義に落ち着いたが、この考える過程が大事だと自分は思っている(これも本に書いてありそう)。

 

そして、「楽しく学ぶのが上手」という点が、頭が良い人たちに共通していると思う。

例えば、数学が得意な友達は、面白い数学パズルをたくさん知っていたし、理科が好きな友達は「元素生活」や「空想科学読本」のような楽しく理科を学べる本を読んでいた。語彙が豊富な友達に「活字を読むのが苦手」と相談すると、星新一のショート・ショートを勧めてくれた(これらは中学の塾の同級生の話)。

他にも、英語が得意な友達は、「centipede」という単語を知らなくても「century(100年)」や「centimeters(1/100メートル)」から「centi」が「100」を意味していて、「pedal(ペダル)」から「pede」は足に関係していて、結局「centipede」は足が多い「ムカデ」って連想できそうだよね、という面白い話を高校時代に自分で考えていた(これはゼミ選考が同じだった友達が高校生の時の話)。

頭が良い彼らは、なんと言うか学びの第一歩である「楽しさ」を必ず知っていたと思う。楽しみを求めて知らない事を学ぶため、知識が無い状態で考える事に慣れていると自分は思う。

そして、「知らない事への楽しさ」は、少なくとも幼稚園・保育園に通っていたころには誰でも持っていたのではないか。

頭が良い人たちは、楽しさをずっと忘れていないように感じる。また、学ぶのが楽しいと感じない人たちは、いつから感じなくなったのだろうか。

 

ここで、「楽しく学べるから頭が良くなる」のではなく、「頭が良いから、学びの楽しさを理解できる」という因果関係もあると指摘ができそうである。自分も、これらは相互関係であって、一方向の関係ではないと思う。

ただ、ニワトリタマゴの関係にあるから、これらの二つの因果関係を別々に考える事に意味の無い、とは思わない。

 

「学びの楽しさ」と「学ぶ」はループみたいな関係にあり、そのループがうまく回る人が頭が良い傾向にあり、「楽しく無いから学ばない」と「学ぶのが楽しくない」のループを回している人たちとは大きく差がある。この循環が正か負か、その後の人生で回り続けた積み重ねによって、両者に大きく差が出ていると思う。そして、学生時代の途中で、一旦負に回ったループが、あるきっかけで正方向に回り出す(出したであろう)人を今までに多く見てきた(また逆も然り)。

 

長すぎる話もやっと終わるが、「自分は知らない」事を素直に認められる人が、正方向のループを回せていると思う。

勉強していて「なるほど!」とか「楽しい!」と思う瞬間では、同時に「自分はそんなこと知りませんでした」と認めている。この、自分が知らない・できないことを認めるコストを、発見の楽しさが上回っている場合に、楽しく学ぶサイクルが回り出すと思う。

逆に、これができない人は、自分のできなさを認めないという意味で、プライドが高いなと感じる。知識や正解に頼った問題の解決は、自分でゼロから考える難しさに直面しないという点で、ある意味楽である。

 

以上の自分の経験を踏まえて考える「頭が良い」とは「知識が無くとも自分で考えられる」事であり、できない事を素直に認め、楽しく学べる人たちは「頭が良い」傾向にあると思う。

 

自分の周りにいた頭が良い人のおかげで自分の能力を伸ばせたし、これからも見習って行きたい。自分は環境に恵まれたと、つくづく思う。