身の程を知ることについて

今までで一番長い記事かもしれないが内容は薄い。

 

コンプレックス

突然だが、自分は学歴コンプレックスである。

対して頭が良くもないのに、偉そうに「頭がいいことについて」とブログを書いている事実から、御察しの通りである。

 

それは、自分の就職活動にも現れている。

就活生の人気企業ランキングには、コンサル業界の企業がずらりと並んでいる。これらコンサル業界の面接方法として「ケース面接」や「フェルミ推定」といった地頭テストが行われる事が知られている。

「ある程度の大学出身である自分でも、内定は夢ではない」と心の中で思っていたのであろう。自分は、就職活動で淡い期待を胸にコンサル業界のみを受け続けた。

言うまでもなく結果は散々で、コンサル業界と位置づけられながらも、実態はSIerのような企業に入社することになった(能力の無い自分を拾ってくれた唯一の企業で、この企業には非常に感謝している)。

 

また、自分の卒業論文のテーマにも、学歴コンプレックスが現れている。

自分の卒業論文のテーマは「大学発ベンチャー企業」である。大学の理系研究者(教授から学生含む)が、研究している技術を基盤に設立するベンチャーであり、GoogleやHewlett-Packardは大学発ベンチャーである。

このように「ビジネスとアカデミックの間(曖昧な表現だが)」である大学発ベンチャーに興味があり、テーマとして選択したと認識していた。しかし、論文を完成させた後、このテーマと自分のコンプレックスとが結びついている事に気がついた。

自分は高校生の時に理系選択から文系選択に変更している。理系の科目が得意だったが、理系のクラスに馴染めず、将来やることも決まってなかったので変更したのである。

きっと、就職活動を終えて卒業論文に取り掛かる自分には、高校の文理選択が正しかったかどうか未練があり、文理の狭間のような「大学発ベンチャー」を対象にしたのではないかと考えている。

卒業論文を書いている途中はそんな意識は無かったが、書き終えて実感したのである。

 

そもそも、なぜ自分がコンプレックスの直視にこだわるのか。

それは、コンプレックスを「自分で直視できないほど理想と現実のギャップが大きいところ」だと思っているからである。

きっとコンプレックスにしている部分は、何らかの理由で「自分が非常に達成したいこと」である可能性が高い。

しかし、それは同時に、達成したい理由を「自分にとって耳障りの良い」合理的な理由に歪めてしまうほど、直視することが難しい。

 

「負けを克服する方法?」「勝つことよ」

モリーズ・ゲーム」という実話を元にした映画がある。

観たいがまだ観てないという方は、以下ネタバレが含まれるので読まないで頂きたい。主人公は、美人でありながらスポーツも勉強もトップクラスにできるモリー・ブルームである。幼い頃は、心理学者の父にスパルタ指導を受けながら、モーグルのオリンピック選手候補に選ばれた。しかし、不運にも怪我をして引退し、その後ハーバード大学ロースクールを卒業し、違法スレスレのカジノを個人経営することになる。このカジノは芸能人や危ないビジネスで大金を稼いだ男たちを相手にしており、非常に儲かっていたが、結局FBIに摘発されて失敗してしまう。

そして、この映画のラストシーンは心理学者の父による、モリーのカウンセリングである。モリー本人は、自身の優れた頭脳を生かし、誇りを持ってカジノを経営していたと思い込んでいた。しかし、自分(父)のスパルタ指導がトラウマで、「強い男」を支配することが本当のカジノ経営の動機だったと、父に指摘される。

結局のところ、コンプレックスがモリーのカジノ経営を駆り立てていたのである。

 

ここで自分が重要だと思う事は、「なぜそれがやりたいのか」自身で正確に認識できていたかどうかである。

例えば、モリーが「でもやっぱり私は強い男を抑圧したい!」とカジノ経営を再開させても、(それはそれで問題あるが)自分のやりたい事を正確に把握した上で行動しているという意味で、自分は良いと思う。

 

自分の意見だが、コンプレックスの認識から無意識に逃げている事が原因で「自分のやりたい事」を把握できていない場合、それを達成する事は難しい。 

しかし、そもそもコンプレックスの認識は、よほど意識的に行わない限り難しい。

ここで、認識できているかどうか確認するための、例をいくつか提示する。

 

御社を志望する理由

まずは就職活動で企業を選ぶ基準として、重視していた事を振り返ると、自己理解がどの程度であったか把握できるだろう。

自分への理解が深い場合、自分がやりたい事の範囲も自然と狭まり、志望する仕事の範囲も特定されるはずである。

しかし、企業の志望理由に、具体的な業務内容が全く含まれていない場合、自分に対する理解が浅いと言える。また、業務内容が含まれていれば必ずしも、自分を深く理解しているとは言えない。

 

例えば

「自分のITスキルを活用したい」「商社で英語を使って働きたい」「ベンチャー裁量権を持って働き、成長したい」「働きやすい職場である」「コンサルで起業するための経験を積みたい」「能力主義成果主義である」「年収が高い」…などである。

これらは全て手段が目的化している。このレベルの理由だった場合、自己理解は浅いだろう。

 

また、認知度が高い特定の業務を志望していた場合、自己理解が浅い可能性がある。

例えば銀行で、M&Aやトレーダーをやりたいと志望していた場合。それは世間のイメージに流されている可能性が高い。

同様に、起業を志している場合も「起業してでも達成したい事は何か」に答えれない場合、自己理解は浅いだろう(成功するかは別の話であるが)。

起業したい理由が「単に起業したいだけ」「誰かの下で働きたくない」や「一般的な人のレールから外れたい」の場合、その可能性がある。

 

卒業論文のテーマ

卒業論文のテーマが「自身の経験による学校教育の欠点」や「就職活動」の場合、学歴または内定先がコンプレックスであるかもしれない。

例えば自分は最初「地方による教育の格差」をテーマにしようとしていた。

無意識のうちに、自身の納得いかない事の原因を、地方出身であることに帰着させたかったのであろう。(その後も結局、コンプレックスに関係したテーマを選んで恥ずかしい限りである。)

 

これはブログの内容にも同じことが言えそうである。

例えば、自分のように頭の良さや勉強について記事を書いた場合である。

しかも、勉強ができない原因を自分に帰着させていない場合、つまり原因を環境のせいにしている場合、それがコンプレックスである可能性が非常に高い。

 

このように、卒業論文のテーマとして選んだ対象と、自分の弱みは関係あるかもしれない。

 

自分の知り合い(女性)で、卒業論文でのテーマも含め、学校教育の問題点、特に教師の指導力不足を主張し続けている人がいた。

教師に冤罪を掛けられ、結局自分がやったと言わされた経験があるらしい。

その人は特に外国語が堪能でもないが、現在は海外に住んでいる勇気のある人である。(自分の推測だが)彼女は人が自由に意見できない事に対して、非常に強い反発心を持っていたた。そのため、海外に移住するという彼女の選択は、意見が受け入れられない事に対しての強い反発だったのではないか。

彼女はとてもバイタリティのある人で、海外でも問題なく生活しているが、普通の人が彼女を真似するのは危険である。

 

以上のように、自分が注意深く決定した事には、無意識下の感情が反映されている場合がある。

 

好意を持った相手

自分が今までに好意を抱いた人を思い浮かべてほしい。

自分の場合、運動が得意な人が多かった。それは自分の運動への苦手意識に起因している。苦手意識が無くなった大学生から、運動が得意な人に惹かれることは無くなった。

 

惹かれる相手に対して無意識のうちに、自分に足りない部分を求めている可能性が高いことは、直感的に理解できるだろう。

 

自分の大学の友人は現役高校生に好意を抱いた事がある。

彼は当時大学4年であり、相手は友人と同じ高校の出身である。そして彼は、後輩へ好意を持った事にコンプレックスが関係していると自覚したのである。

この友人は、能力に自信を持ちながらも、自分の弱みを直視できるという事に関しては天才的である。今回のタイトルでもある「身の程を知る」能力が、自分(筆者)が知る人物の中でダントツで高い。

彼は、学歴コンプレックスが、好意を持った要因だと分析した。大学受験を終えていないその後輩と、まだ多くの可能性があった受験生時代の自分とを、無意識に重ね合わせたと述べている。

彼は弱みを直視できるため自己理解が深く、常にやりたい事に向けて努力できている。

 

真似

最後に、何かをまねする、もしくは演じている場合、そこに自分の弱みが反映されている可能性がある。

例えば何かの作品に出てくる賢いキャラクターの口調や表現を真似している場合、もっと賢くなりたいという意識の現れである。また、架空ではなく実在する人物の口調や表現を真似ている場合も、同様である。それらはSNS上の発言で顕著に現れやすい。

周囲の人々が持つ自分のイメージと、TwitterなどSNS上の自分とが全く異なっている場合 、それは自分の理想像をSNS上で演じてる可能性が高い。 

「これが俺の/私の本性だ」と言わんばかりに、必要以上に口が悪い場合や、過激で面白い事を言ってみようとしている場合が多い。

大変恐縮だが、それは別にあなたの本性では無く、単にあなたが「こうなりたい」と思う自分を演じているだけである。自分の表現は自由にして頂いて構わないが、そこまでするほど自分を変えたいなら、現実と理想のギャップを潔く認め、努力した方が良い。

 

長い話の最後に

自分の理想と現実のギャップを埋めるために、時には悲惨な自分の現実を直視する必要がある。その場合、コンプレックスが認識を無意識に歪める場合があるため、積極的に自分の弱みを認知すべきである。

 

この話が理解できない場合や、この話に嫌悪感がある場合、自身の弱みを直視する事を無意識に避けている可能性が非常に高い。

 

この話が理解できるが、弱みを直視せず生活する方が自分は楽だと感じた場合、それも一つの方法である。

ただし、自分はそういう、向上心が無く自分を守りたいだけ人が非常に苦手である。

 

最後に、この話が理解できて受け入れられる人たち、きっとその人たちは自分と仲が良い人たちだろう。あなたたちのそういうところが好きです。

 

素直で向上心のあるみんなが好き♡という話。