頭が良いということについて

小学生から現在までで、自分が考えてきた「頭の良さ」について整理したい。

 

最近「頭の良さ」について考える機会が増えた。それに伴って「頭が良くなりたい」と思うことも増えた。後者に関しては、これから迎える社会人生活や、その後の人生が不安で、「苦労せずに結果を出す人生を送りたい」という甘えが根底にあるかもしれない。それはともかく、特に流れもなく自分の考えを書いていく。

 

何が「頭が良い」ではないのか

まずは自分は「知っていたからできた」を頭が良いとは判断しない。

自分は小学生の時は公文に通っていて、授業よりも進んだ範囲を学習していた。公文に通っていた人や友達を持った人ならわかると思うが、自主的に学習を進めた結果、授業の進度より公文の教材の方が進んでいることが多くある。

そして、クラスメイトが習っていない範囲の問題を解けると自慢し、担任の先生に「よくそんなこと知っているね!」と褒められていた友達が周りにいた事はないだろうか。

自分はそのくだらない自慢が嫌いで絶対にやらなかった。もちろん、そんなの「知っていたからできた」だけだから。

もちろん公文の学習の良さや自慢した人の努力は認めるが、自慢にはならないだろう、という話。

 

そして、これは話の本筋とはズレるが「努力してできた」も頭が良いとは判断しない。

中学の時に通っていた塾に、成績優秀な女の子の同級生がいた。その子は結局、北大医学部医学科に現役でありながら次席で入るという(その年は主席も現役らしいけど)、クソ優秀な子だった。けど、塾にいた時に「頭が良い」と思った事はなかった。なぜなら、その子は死ぬほど努力していて、その努力ならその結果出るわ、と思ったから。

もちろん、結果を出せる努力ができる事も才能だと思うし、その子の努力は賞賛されるべきだし、医学科に2位で入れる時点で地頭良いだろっていう事も認めるし批判する気は全然ない(そしてその子はめっちゃ良い子で正直非の打ち所はない)。

ただ、例えば大学の授業を一生懸命勉強して、自分がAだの秀だのとったしよう。一方で、定期テスト直前になって友達のレジュメを一生懸命印刷し、一夜漬けでB+とか優とかとっちゃうヤツがいたとしよう。自分だったら、ああ、負けたと思う。

 

自分が「頭が良い」と思った時

「頭良いわけではない」の話をしたところで、友人の発言を聞いて「敵わないな」と思うほど頭の良さを感じた瞬間が、人生に何回かあったので説明する。

 

さっきと同じ、自分が中学生で通ってた塾の話。

この塾は、周りのレベルが自分よりはるかに高く、相当な刺激を与えてくれた。自分のレベルを引き上げ、人生を変えてくれたと思う。

その塾の数学の授業中。中2.3くらいの時期で、内容は合同か相似の第一回の授業だったはず。(図は当時と正確に一致しないと思うけど説明のために作成した。)

先生の言うところによると、どうやら合同な三角形2つからできた、角a=角bを示さなければならないらしい(下図)。

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自分は、見たらそんな感じするけど、説明できるか?と思った。同時に、先生の説明にかぶせるぐらいの勢いで、頭が良いヤツ2人の発言がハモった。「同じのから同じの引いてるんだから同じじゃん。」

いや、そうなんだけど、なんで習ってないのにコイツらわかるんだろう、自分は敵わないと思った。

 

そして、さっきの図に、なんとなく円がかけそうだなと思った人は居ただろうか。

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言われたら当たり前の話なんだけど、円だから→こういう性質 の向きの思考はしてても、こういう性質を持っているから→円だよね、という思考ができるだろうか。

こういう思考が必要な問題を出されても、習っていない自分には解けなかった。周りの奴らは解けていて、敵わないと以前に増して思ったのは、中3終わり際の高校受験の時だったと思う。

 

そして、その後大学に入るまで、何回もコイツすごいと思う瞬間はあったが、特に印象に残っている話。

大学2年のゼミ選考の時。あるゼミの選考では、あるテーマについて何人かで議論し、結論を出す過程で個人それぞれの様々な能力を判断される、という選考方式が取られていた。就活のグループディスカッションと全く同じ。なんか声のでかい奴や慣れてる奴が通りやすい、と就活生から不満のあるグループディスカッションだが、当時の選考を受ける人たちにそういう経験や知識は無く、能力の差がちゃんと出る選考だったと思う(自分は落ちた)。

そのゼミの選考で、たまたま友達と同じグループになった。テーマは「無人島に行くとしたら何を持って行くか」でグループ全体で5.6人くらいだった。

話が始まると、案が多く出てきたが全くまとまらない。そこで友達が「議論を進める上で、認識や前提を一致させないと進みませんよね」みたいな内容を発言した。無人島に持っていく道具はカバンに入るくらいの大きさを想定しようとか、無人島での目的は1週間くらい生き延びる事だと仮定しようとか、そういう友達の発言によって結論が出た。

ここで、就活のグループディスカッションには「まず議論の前提をみんなで確認しなさい」というのお作法()がある事を説明したい。就活をしている人たちは気持ち悪いくらいに絶対やるし、自分もやった。自分を含めて、この人たちは就活セミナー(?)で作法を習っているから、絶対やるのである。

正直、このお決まりルールは気持ち悪いが、議論をする上では間違っていないと思う。そして友達はゼミ選考でやったことは、議論中に話が滞っている原因を自分で考え、その上で正解とされている「お作法」を発見するという離れワザである。

ゼミ選考中はもちろん、就活で作法を習った時に、あいつは自分でこれを考えたんだ、と二度驚いた。

もちろんその友達は選考に受かった。ただ後から話を聞くと、そのゼミ選考を見ていた先輩たちが、友達の頭の良さを適切に判断していたか疑問が残るが関係ない話である。

 

頭が良いとは結局何か

結局自分が考える「頭が良い」とは「知識の活用ではなく、自分が考えることで問題を解ける」状態の人だと思う。ここまで考えて、本で書いているような「頭が良い」の定義に落ち着いたが、この考える過程が大事だと自分は思っている(これも本に書いてありそう)。

 

そして、「楽しく学ぶのが上手」という点が、頭が良い人たちに共通していると思う。

例えば、数学が得意な友達は、面白い数学パズルをたくさん知っていたし、理科が好きな友達は「元素生活」や「空想科学読本」のような楽しく理科を学べる本を読んでいた。語彙が豊富な友達に「活字を読むのが苦手」と相談すると、星新一のショート・ショートを勧めてくれた(これらは中学の塾の同級生の話)。

他にも、英語が得意な友達は、「centipede」という単語を知らなくても「century(100年)」や「centimeters(1/100メートル)」から「centi」が「100」を意味していて、「pedal(ペダル)」から「pede」は足に関係していて、結局「centipede」は足が多い「ムカデ」って連想できそうだよね、という面白い話を高校時代に自分で考えていた(これはゼミ選考が同じだった友達が高校生の時の話)。

頭が良い彼らは、なんと言うか学びの第一歩である「楽しさ」を必ず知っていたと思う。楽しみを求めて知らない事を学ぶため、知識が無い状態で考える事に慣れていると自分は思う。

そして、「知らない事への楽しさ」は、少なくとも幼稚園・保育園に通っていたころには誰でも持っていたのではないか。

頭が良い人たちは、楽しさをずっと忘れていないように感じる。また、学ぶのが楽しいと感じない人たちは、いつから感じなくなったのだろうか。

 

ここで、「楽しく学べるから頭が良くなる」のではなく、「頭が良いから、学びの楽しさを理解できる」という因果関係もあると指摘ができそうである。自分も、これらは相互関係であって、一方向の関係ではないと思う。

ただ、ニワトリタマゴの関係にあるから、これらの二つの因果関係を別々に考える事に意味の無い、とは思わない。

 

「学びの楽しさ」と「学ぶ」はループみたいな関係にあり、そのループがうまく回る人が頭が良い傾向にあり、「楽しく無いから学ばない」と「学ぶのが楽しくない」のループを回している人たちとは大きく差がある。この循環が正か負か、その後の人生で回り続けた積み重ねによって、両者に大きく差が出ていると思う。そして、学生時代の途中で、一旦負に回ったループが、あるきっかけで正方向に回り出す(出したであろう)人を今までに多く見てきた(また逆も然り)。

 

長すぎる話もやっと終わるが、「自分は知らない」事を素直に認められる人が、正方向のループを回せていると思う。

勉強していて「なるほど!」とか「楽しい!」と思う瞬間では、同時に「自分はそんなこと知りませんでした」と認めている。この、自分が知らない・できないことを認めるコストを、発見の楽しさが上回っている場合に、楽しく学ぶサイクルが回り出すと思う。

逆に、これができない人は、自分のできなさを認めないという意味で、プライドが高いなと感じる。知識や正解に頼った問題の解決は、自分でゼロから考える難しさに直面しないという点で、ある意味楽である。

 

以上の自分の経験を踏まえて考える「頭が良い」とは「知識が無くとも自分で考えられる」事であり、できない事を素直に認め、楽しく学べる人たちは「頭が良い」傾向にあると思う。

 

自分の周りにいた頭が良い人のおかげで自分の能力を伸ばせたし、これからも見習って行きたい。自分は環境に恵まれたと、つくづく思う。